| Just Jpan 2001 10月号 |
| ≡ 中国留学顛末記・7 ≡ |
| 池内 美喜子 |
上海の大学では,午前中に授業を受けた後,午後は各自で自由に過ごしていい。昼食は宿舎のレストランで用意してくれるが,ここぞとばかりに街へ繰り出して地元の食堂で食べたいと思えば,先に断っておけば外でも食べられる。せっかくのチャンスなのだから,現地の人と同じ食堂に行ってみたい……と考えた同志もいないではなかったが,明らかに少数派だったようだ。やはり,基本的に似たようなスタンスと志向を持つ私と,同室の水内さんは行動をともにすることが多くなった。
とはいっても,そこは所詮自信のない学生たち(元もふくむ。私もつまるところ同様の発達段階だ)のこと,最初は「日本でもお目にかかれそうな」カフェからはじめたメンバーが多かったようだ。しかも,無難なホテルのカフェ→街中のふつうのカフェ,というふうに考えたのだが,そこに意外な落とし穴があった。ホテルのカフェといえば,ある程度の出費は覚悟しているものの,基本が貧乏学生の私たちは,いかんせん日本にいる時もホテルのカフェなんてほとんど利用したことがなかったのだ。
「ひぇ〜。トイレに番人がいるんだねぇ……」
「チップを出さないといけないなんて」
「紙やおしぼりを提供してくれるのはともかく,手洗いの水までは出してほしくないよ―。かえって緊張しちゃう」
「すっごくピッカピカなのはいいんだけどな」
外国人の多いところは,それなりの対応をしているわけだ。貧乏学生はヨーロッパなどに行ったことはないし,行ったとしてもチップのいるトイレには入らない。現地の人にとってはこれも収入源の1つなのだろうとも思うが,違和感だけが残った。
さて,カフェといえばまずはケーキセットだというわけで,日本円にして数百円のものを頼むと,これはまぁ妥当と思われるデキだった。ウェイトレスとのやり取りはここでは英語だし,この頃は無論,現地の価格水準がわかっていなかったわけで,ともかくも納得したのだった。
あぁ,メニューは普通だなぁ,と思っていると,何やら若干場違いなBGMが耳に飛び込んできたのだった。1Fのカフェは広い広いアトリウムになっていて,2Fがバルコニー様にぐるりと見渡せるのだが,一部分が張り出していて“さながらステージばりだ”とは,入った時から感じていた。案の定,そこは時間を決めてライブステージが催されているようだ。大きなガラスばりの窓から,その日の上天気のおかげでこぼれんばかりの陽光がさしこみ,天然スポットライトのごとき明るさの中で5〜6人のバンドによる演奏が始まっていたのだった。
「へー、こんな昼間から生演奏を入れてるんだねぇ」
「ホント。さすがにお金がかかってるね」
「日本や他の国にいるのとあまり変わらない雰囲気だわ」
「たまには,こういう眠くなりそうなムードもいいですね」
「でもなんか,これって,この場にふさわしいBGMかなぁ……??」
そう,真昼のカフェに流れてきた音楽は,思いっきりゆるい感じのスィングジャズだったのだ。しかも,バンドのメンバーというのが壮年というよりは熟年,もっといえば老年に近いような,ほとんど「おじいさん」たち。一瞬口を開けて見入ってしまったのは,私の認識不足のせいだったろうか。
言いたかないが,実は私は学生時代に,ブラスバンドのメンバーとしてベースを担当していたのだ。卒業してからも市民バンドなどで時々弾き続けている身なのである。……だもので,ジャズのレパートリーはまったく知らないわけでなし,プレイ面でもテクニックやバランスなんかも耳についたりする。つまり早い話が,流れてくる音楽はテクニック的にはうまいとは言いにくいものだったし,明るい昼向きとは思えないダルなムードをかもし出していたのだ。それでもなお何か迫ってくるものがある……そんな音だった。そしてその事実によって,メニューという点ではほとんど印象を残さなかったこのカフェが,深く記憶に刻まれることになった。
宿舎に帰って安部さんと顔を合わせた時に,カフェでの疑問が解けることとなる。
「今日はどこへ行ってきたんですか」
「えぇ,手始めにホテルのカフェなど……。なにかおじいさんたちのジャズの生演奏がありました」
「あぁ。あそこへ行ったんですね。あのメンバーが『和平飯店』のジャズバンドですよ」そうだったのか。あれが「上海バンスキング」を地でいってる人たちだったのだ。昼らしくない雰囲気も道理,古きよき上海らしい上海をそのまま継いでいるメンバーならではの,ダルやゆるさだったのだ。激動の時代を知っている人たちの音だったんだと,コトリと腑に落ちたとでもいうような感覚があった。来る早々知らずに突き当たったとは,けっこうツイてたかもしれない。
その日は,軽い興奮とともに奇妙な幸福感を抱いて眠りについた。
<了>
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