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3
「とどのつまり、幽霊ってこと……ですか」
たっぷり五分間は沈黙してから、やっとそれだけいえた。
「……たぶん」
彼はとても自信なさそうにうなずいた。
人には見えない、鏡にも写らない、彼の足許を見ると、なるほどさっき彼が尋ねたことがようやく理解できた。
影がない。
たしかに、幽霊としての条件は備えている。しかし幽霊って、日中から堂々と出歩くものなのだろうか、それに自転車にちゃんとぶつかるものなのだろうか、ましてや、これが最大の疑問……何で、わたしには見えるのだろう。
「それはわからないけど」
彼は答える。
「死んでから口をきいた生きている人間は、君が初めてだよ」
「でもさっき、久しぶりって」
「生きている頃の話さ。最後に誰か生きている人と話をしたのは、二年前のこの頃だったかなあ。だから久しぶりで」
「二年前?」
「そう、確かプロデューサーと話をして、そのあと、殺された」
「プロデューサー?」
「そう、ぼくは映画の仕事をしていてね」
「じゃあ、最後に話したのは、その、プロデューサー?」
「きちんとした話はね。正確には違う」
彼は少しずつ険しい表情になっていく。
「その帰り道だった……電車に乗ろうとして……階段を下りていたんだ。そこで突然誰かに背中を押された。ぼくは足を滑らせて、真っ逆さまさ。救急車に担ぎ込まれて、誰か男の声がぼくの名前を呼ぶのが聞こえて、それに応えた……」
「…………」
「そこまでは覚えてる。だからたぶん、それが最期なんじゃないかな」
当時のことを思い出したのか、彼は側頭部を軽くさすった。
「背中を、押された……」
「そう、ひどいもんだよ」
憤慨したように彼はいう。
「いくら思い通りに事が運ばなかったからって、何も殺すことなんてないじゃないか」
強い口調。
「……そう、ですね」
わたしは思わずたじろいだ。
「あ、ごめん」
自らの行為にはっとすると、彼は申し訳なさそうに手を合わせた。
「こんな話をするつもりじゃなかったのに」
「いえ……」
沈黙が訪れた。彼は決まりが悪そうにズボンの腿のあたりを手のひらでこすっている。
幽霊なのに、奇妙に優しい。
不思議な感じがした。今まで男性と話していて、こんな気分になったことはなかった。確かにぎこちないが、でもちゃんと、会話もできている。
今までにこんなことは一度だってなかった。
不思議な感じがする。
「……誰だかわかっているんですか」
唐突に話しかけた。
「え」
彼はとまどった目を向けた。
「その、犯人……を」
「ああ……犯人」
また当時のことを思い出したのか、彼は側頭部を軽くさすった。そのあたりが、致命傷だったのだろうか。今は見たところ、きれいなものだが。
「さっき、誰か心当たりがありそうないい方だったから……」
彼は側頭部をさすったまま暗い表情で、何も答えない。
わたしは彼の答えを待った。
しかし待てども待てども、彼は何も答えなかった。そこでやっとのこと、わたしは彼が答えにくい質問に困っているのだとわかった。
「ごめんなさい、差し出がましいこと……」
「いやそんな」
彼は慌てたように否定したが、再び沈鬱な顔つきに戻ると、
「でも……これはよくあることだから……」
吐き捨てるようにいって顔を背けた。
そこに悔しさが混じっていることはわかったが、わたしにはどういう意味なのかさっぱりわからなかった。五度目だ。
幽霊には、幽霊の事情があるのだろうと考えることにした。
雲の薄い部分から太陽の光がうっすらと街を覆った。若干明るさを増した視界で、一瞬彼の姿が薄くなったような気がした。
唐突に彼はいった。
「そういえばどこかに出かけるはずだったんじゃないの?」
顔を背けたままで。
努めて明るくいったつもりのようだった。しかしどう転んでも、とってつけたような話題にしか聞こえなかった。
「あ、ええ、まあ……」
曖昧に答えながら、自転車に手をかけた。
「じゃあ、行きます」
彼は何も答えなかった。
そっと彼の方を見ると、名残惜しそうな様子だった。けれど、何をいっていいものかわからなくなっている感じだった。
わたしは、今日のこの不思議な出会いを、どう解釈したらいいのか全くわからないでいた。しかもこのまま別れるというのは、あまりにも釈然としなさすぎる気がした。
しかし……これ以上何もことばがないのなら、仕方がない。
わたしは顔を元に戻し、自転車にまたがった。ペダルに右足を乗せた。そして右足に力を入れる。
そこで彼はようやくいった。
「……この、近くに住んでいるの?」
思わず振り向いた。彼は顔を背けたままだった。わたしは顔を元に戻した。自転車のかごを見つめた。かごの底の一番右から三番目の網目を見つめた。しかし声は彼に届くように、はっきりといった。
「そう、すぐそこの、赤い屋根のアパート」
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