Just Jpan 2001 8月号
≡ 中国留学顛末記・5 ≡
池内 美喜子
いよいよ授業の始まる日だ。それなりに緊張して集まる。
とはいえ,初日の顔合わせで何がラッキーだったといって,クラス分けのテストなんかを担当してくれる大学の先生も合流したのだが,この人が30代のなかなかイケてるオジさま(と言っては本人は憤慨するかもしれないが)だったのだ。なんでも東北の方の大学の中国史の先生らしく,いかにもスレていない純朴な感じとオヤジギャグで,女子大生たちの間ではたちまち「センセイ,かわい〜い」という人気者になったのだった。「山田先生」というどうにもありふれた名前と,自分で発したギャグに自分で大いにテレる姿が,さらに好感度を増したのだろう。クラス分けテストを担当した後は,大学に滞在して自分の研究などをしているらしいが,何回かあるイベントには付き合ってくれるということだし,授業期間の楽しみが増えたというものだ。
さて,初日の午前中は本格的な授業に入る前に,大学関係者による心づくしの歓迎会に参加する。正直言って,セレモニー自体はほとんど印象に残っていない。ただ覚えていることといえば,3つのクラスに分かれて勉強するわけだが,この時に各クラスの先生を紹介された。あらかじめ言われていたとおり,いろんな専攻の先生たちで,歴史はともかく,数学の先生もいたりして,多士済済ということだ。尤も,中国全土でも指折りの名門大学の先生たちだから,いずれも大変なエリートであることは2,3日してからわかったのだった。
生徒たちの方はといえば,中国語が専攻の植野さんに,早速「中国語での挨拶」という白羽の矢が当たっていた。皆の代表として,ゆっくりとはいえなるほど「勉強してある」中国語でしっかりと話す。前日に言われて一晩で仕上げたんだから大したもんだ……と,私はのんびりと感心していた。やっぱり勉強ってムダじゃないよねぇ,とその先の中国滞在に多少なりとも希望を持てたものだ。
「あー,緊張したぁー……」
「そう?十分堂々としてるのかと思ったけど」
「そんなことないよー。先生たちもみんな聞いてるのに。通じたんかな?」
「ウン,みんなであーもないこーでもないって話し合ってたもん」
そんなこんなで,ドサクサのうちに歓迎会が終わり,いよいよ次はクラス分けのテストだ。どうやら1人ずつ先生たちとの面談方式でしゃべらなくちゃいけないらしい。
「えーっ!!1人ずつなの。キッツーイ」
「そーね,でも他の人に聞かれるのもキッツーイかもしれない……」
「どっちがマシかわかったものじゃないね」
実際,私たちは初心者の多いグループだったので,大学で3年まで中国語にかかわっていた私は,確かにキャリアだけはもっとも長いうちの1人なのだ。順番に山田先生や安部さんたちの待つ部屋に招じ入れられて,自己紹介程度とはいえ中国語での応答をするのは,なかなかに辛いものがあった。自分はというと英語で言うなら中1レベルのやり取りの後,先生たちが鷹揚に微笑んで何やらひそひそと話し合う様は,不安がいや増す以外の何物でもない光景だった。
当然のことながらもっとも「経験のある」クラスに分けられたものの,大学生たちはほとんどが同じクラス。おじさんやおじいさんたちとは別々になったところを見ると,テストのデキというよりは「勉強のしかた」を知っているクラスと目されているようだ……と思っていると,案の定先生は数学専攻の先生だ。つまり,この先生から何事も自分たちで学び取れということなのだなと,ある面,腹をくくったともいえる。教科書も日本で使っていたものと大差ない内容で,これならまぁ何とかなるか,というほどの認識で授業に入ることになった。後から考えれば,それがたいへん受動的な態度だったことがよーく理解できるのだが,その時はそれでも「いっぱいいっぱい」だったのだと思う。おそらく他の大学生たちも似たような心境だっただろう。
クラスに分かれて教室に入ると,先生はいかにも中国の気のいいオバサンといった感じの人で,楽な気分で授業が進められそうだったのがありがたかった。あまりずっと気を張り詰めていると,語学以外の部分でヘトヘトになってしまう。この日はセレモニーもあったし,テスト後でもあったので,先生とのあいさつと(そこでどの程度聴けるのか,話せるのかを判断していたのだろうが)教科書の開始ページを決めたぐらいだった。それだけでも中国人と話す機会の少なかった私は,聴いているのに必死。先生は精いっぱいゆっくり簡単な単語を使ってくれるのだが,わかるのはやはり6〜7割といったところだっただろうか。
以後,午前中いっぱいが授業で午後は自由行動というスケジュールで毎日を過ごすことになる。滞在中にあそこに行きたい,あっちにも行きたいとからだ中を期待に浸して,とにかく研修ライフのスタートとなった。
〈了〉