Just Jpan 2001 7月号
≡ 中国留学顛末記・4 ≡
池内 美喜子
就職して数年の後,私は自らのOL生活に見切りをつけ,何か一つでも「使える」ものを身につけようと考えた。その結果,多少なりとも経験のある中国語を選び,中国に留学しようと思った時,生活に関する不安はあまりなかった。というより,学習のほかに「生活」があるということについて,深く考えを致していなかったのだ。体は頑健そのものだし,食事は大抵のものは大丈夫,どこでも寝られることにも自信があったから。トイレに関するウワサも聞いてはいたが,それこそ大して心配していなかった。
上海の表通り,裏通りを通りぬけて着いた先の「交通大学」で,私たちが案内されたのは,何の心配も要らない教員用の宿舎だった。
「けっこうキレイじゃない」
「個室じゃないって聞いてたけど,2人部屋なら寂しくなくて却っていいかも」
「そうだね。退屈しないよね」
この時点では,私たちはまだまだお気楽なトラベラーだった。部屋割りは既に決まっていて,九州のおっとりギャル,水内さんと同室。
「よかったあ。気楽に過ごそうね」
「言いたいことはお互いどんどん言うようにしましょうね」
部屋にはいる前に,安部さんから注意事項が言い渡される。
「ここは本来,教員用の宿舎です。一般のホテルとほとんど変わらない施設ですが,これは飽くまでも特別の待遇なんですよ。地方からの学生や一般の留学生は,みなここより狭い部屋に3段ベッドで寝ています。もちろん部屋には冷暖房なんてありません。そのことを忘れないようにしてください」
なるほど。「けっこう」キレイなんて言っていてはいけないわけだ。
「さらに、教員用ということは,ここに泊まる人はほとんどが各国の大学教授です。皆,中国語か英語が堪能です。ですからここにはホテルと同様のフロントがありますが,そこの職員が話すは中国語と英語です。何か用事がある時には中国語を使うか,最悪の場合英語で職員とやり取りしてください。私は所用で出かけることも多く,ずっとここにいるというわけではありませんからね」
あ,なるほど。ここでは日本語は通じないんだ。え,では私たちの中国語で生活全般についても何とかしなくてはいけない……?
「ついでに言っておくと,中国語の先生も専攻は別の学部ですから,日本語はまったくできません。今から覚悟しておいてください」
このあたりで,次第にツーリスト気分は抜けてくる。そーか,ガイドさんがついてくれるいつもの旅行とはちょっと趣が違うんだ。
「ただし,ここのレストランの料理人は超一流ですから,その点は期待してもらっていいですよ。毎日豪華な食事過ぎて飽きることもあるのが難点ですが,それもぜいたくな悩みというものでしょう。その意味でも一般の留学生とはまったく対照的です」
あー,そうか。文字通り「ホテル住まい」になるわけだ。でもちょっと普通の留学生の生活にも憧れたりして……と,この時はそう思っていた。それがどんなものだか,まったく知らない故に。
部屋へ入って荷物を解くと,ドッと疲れが噴き出したような錯覚に陥る。まだほんの少し船の揺れの感覚が残っている。そしてこの後,実際かなり早い時期に「中国語で係員とやり取りする」事態に困惑することになる。普通のホテルと同じような施設なので,部屋のドアはオートロックなのである。1日2日の旅行の時ならば緊張感をもってカギを保管するのだが,私たちは授業が始まって何日目だったか,初めての海外旅行者のようにカギを室内に閉じ込めてしまったのだ。おかげで,この期間の最初に新しく覚えた単語は「yaoshi(かぎ)」だった。大学で何年も中国語に触れてきているわけだから,この単語を知らなかったということはないだろう。しかし切実さが段違いだ。この時にこの単語を覚えたという事実は今でもはっきり覚えている,一抹の慙愧とともに。そして同時に感じたことといえば,「外国語会話を身につけるというのはこういうことなんだ」ということと,『5カ国会話』を持ってきてよかった――だった。
ここに来て初めて飛行機での渡航組と顔を合わせる。まだ簡単に名前を聞いただけで,どういう人たちなのかはわからなかったが,ずいぶん年齢幅が広いようだ。おじさんやおじいさんに近い人もいる。それから相部屋の水内さんと2人部屋のベッドの位置を決め,必要なものを収め,宿舎1階の本当にレストランで「豪華な夕食」を摂り,普通の海外旅行時のような緊張感の中で1日目は終わった。
翌日は朝からいきなり太極拳の講習が始まる。みるからに体育会系の壮年男性が講師で,もちろん中国語で指導してくれる。講師の模範演技に倣って見よう見真似で何とかついていこうとするものの,何を言っているのかはほとんどわからない。「上」とか「ゆっくり」という単語がほんのたまに拾える程度。
「あたしは中国語の勉強に来たんで,太極拳なんかどうでもいいんだけどなぁ」
「朝が余分に早いのが辛いですよね」
「だって,何言ってるのかぜんぜんわからないじゃん」
「オジサンたちのほうが元気そうだ」
そう,文句をたれているのは若い世代ばかり。熟年層は朝にも強く,余裕しゃくしゃくでこなしている。もしかして太極拳も初めてではないようだ。
この太極拳に関しても,3週間のコースを修了すると一曲をマスターできて「修了証」のようなものをもらえるらしい。しかし1日目程度では動作もゆっくりだし,講師が何を言っているのかがわからないというもどかしさも手伝って,大して難しくないみたいだからとにかく続ければいいかと,皆して高をくくっていたのだ。
〈了〉