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Just Jpan 2001 6月号
 ≡ 藍色の海 ≡
山本 清史 

 紫陽花が咲いたころ、わたしの恋は始まり、紫陽花の散ったころ、わたしたちの愛は終わりを告げた。

 わたしの家の近くに紫陽花が咲いていて、毎年梅雨のころになると、しっとりと雨にぬれながら、鮮やかな藍色を楽しませてくれる。そのおかげで、うっとうしいこの季節の通勤もどうにか紛らわすことができるのだが、どうやら今年もいよいよ梅雨の到来というわけらしく、気が付くとわたしの癖っ毛が若干の湿りを帯びて好き勝手に飛び跳ねるようになった。

 その日も朝から雨が降っていた。サァッ--と、いう雨の、街に舞い落ちるしずくの音。静かでいながら、永遠に続くかと思われる、川の流れのような。
 起き上がり、鏡を見て、わたしはため息をついた。憂鬱な気分だった。雨は嫌いではない。雨よりも、好き勝手に爆発する自分の髪に気分が滅入ってくる。
 簡単にくしでといて、後ろでまとめた。

 傘を持って家を出る。とたんに、耳一杯に雨音が広がった。
 街は霞んでいた。霧がかかっているのか、遠く煙がかかったようにぼんやりとしている。
 今日の雨は一段と強い。地面で跳ね返ったしずくが、ひざのあたりまで濡らしてくる。道はどこも水溜りのようで、下ろした靴の中にじわじわと浸水してくるのがわかる。気にしても仕方がないので、わたしはかまわず歩きつづけた。
 そして、紫陽花が見えてきた。
 道の右側の植え込みに植えられた真藍の花の一群。どんよりとした雰囲気のなかで、この花だけが生き生きとして、そのからだ一杯に降り落ちる雨のしずくを元気に受け止めている。
 まるで、スポットライトを全身に浴びる舞台俳優のように。世界のすべてが、いまこの瞬間、自分のためだけにあるような、そういう恍惚がきっと、この花の見事なまでの藍色の原点なのだとわたしには思えた。
 雨も、惜しみなくその恵みをこの花に与えつづける。葉を打ち、花びらをたたく。そして茎を滴り、地面に落ちる。そのどれもが愛に満ちていた。雨さえもが、この季節、紫陽花という花のためだけに降り続けるような感覚をわたしは覚えた。紫陽花という花をただ美しく彩るためだけに--。この瞬間、この場にいるわたしは完全に蚊帳の外にいる。ただ、雨という味方をつけて一段と美しく高貴に輝く紫陽花というかぐわしき存在に見とれるほかはないのだ。

 そういえば、「集・真藍」と書くのが「あじさい」の語源であると何かで読んだことをわたしは思い出した。まことの藍が集まり、紫陽花という一瞬の輝きをなす--
 --そうであれば、紫陽花は愛の花でもあるのだ。しかしそうであるからこそ、愛もまた一瞬の輝きしか、わたしたちの心の中に生み出さない。

 彼はどこから来たのか決して口にしなかった。ただひとこと名前だけ告げて、あとは黙って、わたしを痛いほど強く、きつく、抱きしめた。わたしは彼のことをもっとたくさん、いろんなことを知りたかった。しかし、彼に抱きしめられると、いつもそれだけですべてをわかり合えた気がした。わたしの心の中の葛藤、不安、夢、希望、欲求といったすべて。彼は、すべてを見すかしているようだった。そしてわたしも、抱き合っている瞬間だけは、そんな気になれた。
 実際は、彼のことはほとんど知らなかったのだが。それでも、なぜか、とても好きだった。

 こんな、雨の降る日だった。
 彼は紫陽花の向こうからやってきた。まるであの藍色の中から雨滴に流されて染み出してきたかのようにいつのまにか、紫陽花の向こう、わたしの目の前にたっていた。

 彼は傘を持っていなかった。それなのに、まるでいままでどこかで雨宿りでもしていたかのようにほとんど濡れていなかった。どこにも身を隠せる場所などなく、まるでいままで雨と一体であったみたいなどこか現実場慣れした雰囲気をただよわせていた。
 わたしは、突然の彼の出現のことより、その雰囲気に驚いた。そして彼に降り注ぐ雨が、まるで小躍りでもしているように見えた。彼に当たるのがとても嬉しくて……そういう感覚。さらに驚いたのは、こんな雨の日なのに、目の前の紫陽花より、彼の方がずっと輝いて見えることだった。
 わたしはことばを失っていた。雨の降りそぼる街の中に人知れず転がる灰色の石ころになった気分だった。紫陽花と、彼と、雨。彼と出会ったあの日は、それが世界のすべてだった。

 そういえば、彼と会う日はいつも雨だった。

 土曜日、日曜日、せっかくの休み、わたしは穏やかな陽光を浴びながら、ぶらぶらと散歩をするのが好きだった。近所をあてもなく練り歩き、小さな発見があったりすれば、それだけで有意義な休日だったと感じることができた。たとえば、いつも歩く道そばの木に小鳥が巣を作っている。その様子を下から眺めているだけでわたしもその小鳥になれたような気がした。大空を自由に飛びまわれるような感じがした。たとえば、壁の隙間から猫が出入りしている。そうすればわたしも一緒にその壁の隙間を通り抜け、人間の知らない魅惑的な細道を猫といっしょに潜り抜けているような気がした。
 なにより、わたしを照らす太陽の温かさが、そのままわたしの心のぬくもりになった。

 --そう、彼と会う日は、いつも雨だった。

 彼と出会った次の日。
 わたしは雨の中、大きな傘を差してあの紫陽花の許へと歩いていった。いつもどおり、世界のすべては雨にぬれてつやつやと黒光りしている。そして一面の真藍。
 と。
 一株だけほんのり赤く染まっている。青い空にぽっかり赤い風船が揺らいでいるかのように、雨と紫陽花とで、青く静かな視界の中に、一点。ぽつんと。赤。
 わたしはまるで宝物を発見した子どものように目を輝かせた。
 小さな小さな好奇心。
 紫陽花は地中の成分の影響で花の色が決まるらしい。だから、ほとんどが藍色の中で一株だけ赤く染まっているというのは、この株の下で何か変化が起きているのだろうか。
 わたしは近づいて、そっと花びらに触れた。
 紫陽花の見せる、魅惑的ななぞ。
 藍色の集まりで紫陽花であるなら、赤く染まった紫陽花は、さていったい何の集まり--……
 
 唐突に雨が降ってくる。まるで誰かに呼ばれたみたいに、雨が、降る。
 気がつくと、彼が立っている。
 そしてこういう。
「やあ、今日もいい天気だね」

 一株だけ赤いその紫陽花は、まるで血を流しているようだった。不思議な感じだった。まるで、この藍色の海のような紫陽花からすっぽりと何かが抜け出したような、そんな印象を受けた。

 藍色の集まりで紫陽花であるなら、赤く染まった紫陽花は、さていったい何の集まり--……

 雨は、静かに降る。愛情が水滴に姿を変えて、彼の全身を濡らしていく。そんな彼を、わたしはいつも、傘を握り締めて、少し離れたところから見ている。

「どうして傘なんてさしてるの」
 彼は笑顔を浮かべてわたしにいった。
「気持ちいいよ。雨は、今、一番やさしいんだ」
 そういう彼の表情は本当に、すがすがしく幸福感にあふれていた。
「こっちへ、おいでよ」
 そうして彼は踊りだす。
 しかしわたしは傘を手放すことはできなかった。わたしにとっては、雨は、決してやさしいものではなかった。激しく肌をたたき、髪を伝い、ずいぶんとわたしを惨めな気分にさせる。雨にぬれると、決まってわたしは何かに敗北したみたいになった。悔恨と憂鬱が入り混じり、卑屈で傲慢な自分になる。どんどん、自分を閉じ込めてしまう。雨に打たれれば打たれるほどわたしは心の殻を固くする。固くして、固くして、誰にも見られないように、ひっそりと陰に隠れて、身をこわばらせる。
 だから、わたしは傘を手放せない。ひときわ大きなこの傘を。
 彼のことをうらやましく思った。
 どうしてあんなに、雨と戯れることができるのだろう。
 
 それが、わたしと彼との決定的な溝だった。
 

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