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| Just Jpan 2001 6月号 |
| ≡ 中国留学顛末記・3 ≡ |
| 池内 美喜子 |
日本から中国への入国は初めてではなかったが、船ではもちろん経験がなく、たいそう新鮮な心持ちだった。殊に、それが上海という街だっただけに、いっそう効果的だったといえよう。最初、ぼんやりと大陸の影が浮かんできたかと思うと、本当にゆっくりとゆっくりと大きくなっていく。起伏の少ない陸地が目の前いっぱいに広がり始める。飛行機ならほんの数分であろうその過程が、ごくわずかずつ展開していく。何という違いだろう。そのゆるやかさが街への期待を余計に醸していくようだ。「旅情」というのはこういうものかもしれないと、時ならぬ想いが寄せてくる。
これまた自分自身の認識不足としか言いようがないのだが、上海というところは、長江が見えてすぐのところにある街ではないのだ。陸地が目前に迫ってきて、船の位置から見てどうやら河口に入った「らしい」と思ってからが、また長かった。川幅のせいでもちろん両岸がクリアに見えるということはなく、ただ河口特有の霧っぽい視界の中に海水と淡水が渦巻き、川面は恐ろしげな色を見せている。船はその中をそのまま何十分もさかのぼるのだ。
「これだけの河ですから、河口から百mほども海水が入り込んでるといいますよ」
安部さんが教えてくれる。
「予定よりやけに早く着くのかと思ったら、これから河を登るんですね」
何となく圧倒されるようで、皆も口数が少なめだ。船中での疲れも手伝っているのだろう。この時、中国語の授業などで聞いたエピソードを思い出した。
「ある中国人が、日本へ来て『日本にもそこそこ大きな河があるんですね』と言ったんです。でもそれは瀬戸内海だったんですけどね」
というやつだ。改めて日本の、ひいては自分の小ささが身にしみた。
やっと上海の街が見えてきたと思うと、そこはいきなり「外灘(バンド)」なのだった。文字どおり上海の象徴であるそこは、想像していた以上に写真などで見たことのある上海そのもので、そのあまりの異質さに思わずため息が漏れる。なるほど、ここは中国であって中国でない―――。中国と上海の苦難の歴史について多少は知っているだけに、複雑な思いでじっと見入るしかなかった。その突端に税関があり、まさに「外灘」の直中で通関を受けるのだった。
「どうです、船で来るのも悪くないでしょう」
錯綜する胸中を知ってか知らずか、安部さんが意味深な表情で話しかけてくる。
「ホントウにね。突然、けっこう重いものを突きつけられるようなところもあって」
安部さんはニヤついていたが、この時私は本当に困惑していたのだ。確かに―――飛行機で来て外から街に入るのと違い、ストレートに街の心臓部に到着するこのコースは、貴重な体験だった。さらにその後、この街に対する特別な思い入れができてしまったのも、そのせいが大きかったかもしれない。
船から降りて、通関手続きとその後しばらく、ずっと波間に漂っているような感覚が続いていたのは、予想通りというべきか。中学、高校の修学旅行のバスと同じだ。ちっとも陸地を踏んでいる気がしない。
「何だか足元が揺れてません?」
「まだしばらく船上の気分だよね」
迎えのバスを待つ間、黄浦江沿いの遊歩道を覗きに行く。そこには太極拳のおじいさんおばあさんがいて、とても中国らしいムードが漂う。道を隔てた外灘の高層ビル群と太極拳のゆったりした動きのコントラストが、奇妙な感覚を誘う。まさにそれこそが「この街の感じ」であることはすぐにわかった。日本でも堺、長崎などで同じような感じはあるものの、スケールが違う。
やがて迎えが来てバスに乗り込み、本格的に街中に足を踏み入れた。ここからがまたすごかった。後から考えると、バスは南京東路から准海路に入り、目的地の「交通大学」に向かったのだが、最初にもっとも繁華なところと雑然としたところ、閑静なところを一通り見たようなものだ。勉強不足のまま上海入りした私には、とても奇妙な、映画の世界のような時間だった。歩道と車道の区別さえ判然としない道路に、車と自転車と通行人が溢れかえっている。「外灘」のヨーロッパ風のファサードから南京路のごった返すにぎわい、少し細い通りに入ると雑然とした生活の香り。大体私は、世界中どこでも現地の人の活気に触れるとうきうきしてしまうのだ。
「すっごいねぇ。想像以上の大都会だねぇ」
「日本とぜんぜん変わらない感じですよね。むしろ懐かしいっていうか」
そう、どことなく大阪を思い出させる雰囲気を感じたのは、多分私だけではないだろう。
これから3週間ほどはここで暮らすのか―――極めて無責任な期待が身中に充満し、直後に迫っているクラス分けテストなんかについてはすっかり意識から追い出していた。この後、ここにはまさに「コミュニケーションギャップ」を体験しに来たのだということを実感するのに、まったく時間は必要でなかった。 <了>
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