1
「おなか、すいてませんか」
受話器を耳に当てたまま、おれは首をかしげた。開口一番、そう来た。いったいどういう用件だか、さっぱり読めない。しかしおれは、多少興味を覚えた。
どういうわけか知らないが、おれの家には変な電話がよくかかってくるのだ。
花島馨などという女みたいな名前を電話帳に登録しているからいけないのかもしれないが、そのたいていはいたずら電話の類とか迷惑電話の類で、わざわざ相手をするのも面倒だから、何もいわずに無視することに決めている。
しかし、中には好奇心をそそられるものも、稀にある。たとえば、今回のような。
三月も半ばになったころ、おれは大学も春休みでやることもないので、ぐだぐだと昼頃まで寝ていた。行商のスピーカー車が近くの小道を練り走っているのか、さっきから青竹青竹と叫んでいるのがやけにやかましく、おれはいらいらしながらベッドの上でもう何回目になるかわからない寝返りを打った。特に眠くはなかったが、無理にでも眠ろうときつく目を閉じた。今しか寝られないんだから、寝られるときに寝ておかなければ。もったいない。本当はぜんぜんそんなことはないのだが、おれは変に意地を張って、深く息をついたのだった。そのときだ。
けたたましく電話が鳴った。
こんなときに誰だ。おれは舌打ちをした。どうせまたどこかのばかが、おれを可憐なレディと間違えてパンツの色でも訊こうというのだろう。おれは男なんだよ、ばかやろう。こんなもの、無視だ、と決め込んで、おれは耳をふさいだ。
電話は十回ほど鳴りつづけたが、やがて唐突に鳴り止んだ。やっとあきらめてくれたか。やれやれ--と思ったとき、再びけたたましく着信音が鳴り響いた。
息つくひまもない。
しかし二度もかけてくるほどの用事なら、もしかすると緊急を要するかもしれない。そうでなくても、少なくともいたずらではないだろう。
と、思って出てみると、開口一番、女の声で「おなか、すいてませんか」という。
これはいったい、なんだ。
2
黙ったまま硬直していると、相手は再び「おなか、すいてませんか」と訊いてきた。蚊の鳴くような細く小さな声だが、妙に耳に残る。他には何もいわないから、余計にインパクトが強い。
これはどうしようか、とおれは思っていた。どこか常軌を逸している。何か得体の知れない事件とか面倒な出来事とつながっている可能性もあるし、本当ならば、関わり合いにならないほうがいいに決まっている。だが。
--どうせ、ひまだしな。
勧誘とか、売り込みでもないし、いたずらにしては発想が面白い。少しくらい付き合ってみるのも、話の種としてはいいだろう。
おれの応答がないので、少し心配したのだろうか。今度は頭に「あの」がついた。
「あの、おなか、すいてませんか」
よし、と決めた。どういう展開になるかわからないが、危なそうだったら切ればいいんだし、と思って、おれは受話器を握りなおした。
「--うん」
おれはちょっと戸惑ったような感じで答えてみせた。本当は先ほど昼飯を食べたばかりなのだが、ここはひとつ話を合わせて--
「おなか、すいてるんですね」
すると間髪いれずに訊いてくる。よっぽどおれの空腹を心配してくれているらしい。ありがたいことだが、いったいおれとどういう間柄なんだかわからない。というか、誰だ。
「ええ、まあ」
まだまだ探りの段階だ。このあとの展開がみそだろう。おれがおなかがすいていたらなんなんだ。お気の毒です、とでもいうつもりなら、悪態のひとつでもついて即、切ってやろうと思っていると、
「じゃあ、にく--」
といって、唐突に黙った。
にく?
なんだ、にくって。
たぶん、にくは肉だろうが、肉をどうするのだ。くれるのか。
待て待て。その前の「じゃあ」とはなんだ。じゃあ、肉。その後に続くことば。食べたいですか。お好きですか。食べたらどうですか。--意味はつながるけれど。
いや、肉じゃないのか。別のにく、かもしれない。別の、にく。にくのつくことば。たとえば--憎い。
--じゃあ、憎い。
変だ。すごく変だ。
というより、おなかがすいているくらいで憎まれたんじゃたまらない。ありえないだろう、こんな、理不尽な。
ほかだ。別のにく、だ。ほかになにかないだろうか。にく、にく、ニク--
ニクソン!
だめだ。わけがわからない。ますますありえない。
おれは頭を振った。自分の暴走した発想を強く否定した。何度も頭を振っていると、ようやく受話器の向こうから声がした。
「--食べませんか」
どうやら、肉を食べませんか、ということらしい。ほらみろ、たいしたことではなかった。肉でよかったのだ、肉で。
「肉、食べませんか」
もう一度訊いてくる。
おれはどう答えようか迷った。食べるといって、そのあとのことばにも興味があるし、食べないといって相手を困らせるのもいい。でももしかしたら、新手のキャッチセールスかもしれないし。うかつに答えて後で食いきれないほどの肉の塊を自宅に送られてはかなわない。まして、法外な料金を請求されては。
とすれば、まず相手が何者なのかを知るのが先だ。
相手は、おれの電話番号を知っていた。ということは、住所も知っていると考えておいたほうがいい。特に個人情報に神経を尖らせていたわけでもないおれだ。家族構成や年齢までは確実に知れている。加えて、クレジットの有無や、どこの大学に通っているかぐらいまでは、あちこちに流出していてもおかしくはない。
そういうことを知っていて、こんな電話をかけてきているとすれば--。
なんなんだ、いったい。
気が付くと、春先だというのに、おれは汗びっしょりになっていた。
不思議な気分になった。おなかがすいていれば、肉を食べるのはあたりまえだ。おれはベジタリアンでもないし。でもそれをわざわざ本当に親切心から訊いてくるだろうか。しかも、風呂敷包みを持参するわけでもない、電話である。何か魂胆があるに違いないのだ。大体、おれは向こうが誰かもわかっていないのだ。もしかしたら見知った人物かもしれないが、だったら名乗るはずだろうし、名乗れないような事情があるのなら、これはあやしい。まして、おなかすいてませんかと、肉食べませんかのふたことしかいまだしゃべっていないのだ。
おかしな気分だ。
おれは、急に怖くなってきた。考えてみれば、どうにも尋常ではない。
肉は好きだ。だが、それも、なんの肉かによる。
「あの、肉--」
気がつくと、おれは電話を切っていた。
3
玉のような汗が、額に浮いていた。
しかし暑さはぜんぜん感じていなかった。むしろ、薄ら寒かった。
おれは切ったばかりの電話を見つめ、しばらくの間、ぼうっとしていた。
「肉、食べませんか」
あの気味の悪い女の声が、耳に蘇る。どこからあんな声が沸いてくるのだろう。今までにまったく聴いたことのない声。ねばねばのタールのように耳の奥にこびりついている。そのくせ、声以外の部分は、どうにも記憶がはっきりしない。おれは何を考え、何をいったのだったか?
思い出そうとすればするほど、目に見えない空気の渦に巻き込まれていくようで、気持ち悪くなった。圧し潰すようなめまいがおれを襲う。
おれは息苦しくなって、急いで窓を開けた。新鮮というほど、都会の空気はきれいではないが、それでも胸のもやもやがすっと流れいくような感じがする。まるで部屋に澱んだ濁った空気が見せた悪夢のような、どこか現実感の希薄した記憶。
まあいいや。おれは、思い出すのをやめた。
深呼吸をする。少しずつ頭の芯が明確になっていく。
たいしたことじゃない、と思うことにした。単に、変わったいたずら電話だったというだけだ。確かに気持ちの悪いものだったが、いちいち気にする必要もないだろう。
そうだ、たいしたことじゃない。
気分が和らいでいくにつれて、おれの思考はだんだん楽観的になっていった。窓を開けたのは正解だった。いつのまにか、おれの部屋が異空間になりつつあったのだ。窓を開けることによって、それを浄化できた。
おれは、すっかり気分がよくなった。おれは大きく伸びをすると、勢いよくからだの中の空気を吐き出した。もう完全に元気を取り戻した。
そういえば、今日は友だちと会う約束をしていたのだった。毎日が休日だと、こういうことをうっかり忘れてしまう。時計を見ると、約束の時刻にちょうどいい時間だった。おれは急いで身支度をすると、もう気味の悪い電話のことなどすっかり忘れた気になって、待ち合わせの場所まで出かけていった。
しかし、どうも、そう簡単には悪夢は覚めないらしい。
約束の時間に5分ほど遅れて着くと、友だちはすでに二人ともそろって待っていた。悪い悪い、と軽く手を挙げて近寄ると、どうも様子が変で、何かに怯えているようなびくびくした感じだった。
どうしたのか訊いてみると、二人は口をそろえて同じことをいった。
「おなか、すいてませんかって電話がかかってきたんだ」
奇妙だ。
単なるいたずら電話だと思っていた。だが、おれ以外にも、同じような電話を経験しているものがいる。
訊いてみると、内容はまったく同じで、そのあとに「肉、食べませんか」というのだという。
楽観的な気分はどこかへいってしまった。おれ一人だったらいくらでも楽天的に振舞えるだろう。だが、この奇妙な電話がおれ以外にもまったく同じようにかかってきているとすれば、これは何か超自然的なものを感じる。単なるいたずらなのか、それすらも確信が持てなくなってくる。
何か、よくないことが起こるのではないか--そんな気がしてくる。
もちろん、漠然とした不安に過ぎないのだが。その漠然とした不安というやつが、実際に何か具体的な形になるまでが、一番の苦痛である。
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