小沢健二という歌手に、《いちょう並木のセレナーデ》という曲がある。その題のとおり、いちょう並木の下で出逢った二人がさまざまな思い出の果てにやがて別れていくという内容なのだが、歌ばかりではない、いちょう並木であれ桜の森であれ、木の下という場所はいつだってひととひととの――それも男と女の出会いと別れの舞台なのではないだろうか。
* *
その日は、月が、出ていた。
満月だった。十五夜、といったか。
ぼくは公園のベンチに寝そべって、もうずいぶんと、それを見ていた。濃紺に染まった雲ひとつない夜空。ときたま思い出したように、そよ風が吹いて、園内を取り囲んだ無数の桜の木々が、さわさわと揺れる。
穏やかだった。
泡の中にいるようであった。かすかに虹色に光る薄い透明の膜に包まれて、ぼくは空を、ぷかぷか浮いているように感じていた。
そして浮きながら、待っているのだ。
なにを。
――だれを。
それは女である。美しく、はかなげな――たましい。
ぽっと燃えるようなその大きな瞳を思い出して、なぜだかぼくは、ひとり赤くなった。
――いくらなんでも、好きになりすぎた。
それは本心である。しかしいまや、抑えようにも歯止めがきかない。
ため息は、月明かりにとけていく。
からだを起こすと、長時間同じ姿勢を保持していたせいか、節々が痛かった。しかしいやな痛みではなかった。少しずつ凝りをほぐしながら、あたりを見回すと、来たときより、ずいぶんと人が減っていることに気が付いた。
時刻はもうすぐ八時というところである。
女が来たらいっしょに死にたいと思っていたから、ちょうどよかった。
女の名前は、仮にさくらとしておかねばならない。
出逢った季節がさくらだった。ただ、それだけのことだ。
あの――城壁のような無数の桜。あの、不気味なまでに厚くくらい桜の森の中で、ぼくたちはなにを語ったのだったか。
思い出す必要はなかった。ことばとは、本来消え行くものである。しかしてその魔力が、その時、その瞬間を永遠に心に刻んでいく。
ああ、あの瞬間。
好きだ、ということ。そしてはにかみながらもそっと手をつなぎ、知らず唇を重ねていたぼくたち。
さくらの鼓動が、指先を伝って感じられた。かすかに震える柔らかな唇が、とてもいとおしくて、それでいて官能的で、ぼくは彼女の髪を、そっと撫でて、心の中で、彼女の名前を幾度も叫んでいた。
にゃあという声がして足許を見ると、いつのまにか、痩せ細った猫が一匹、ぼくを見上げていた。つい癖で、追っ払おうとしたが、こぶしを振り上げても、蹴る真似をしてみせても、動じる様子はなく、ただ罪深きつぶらな瞳で、ものほしそうにぼくを射た。あいにくなにも食べるものは持っておらず、どうしたものかと思ったが、よくみると痩せたからだには、目立たないがいくつもの傷がついていて、そのせいで毛がおかしな具合に捻じ曲がって生えている。その哀れな様子が、どことなくさくらを思い出させて、ぼくは思わず猫を拾い上げ、ひざの上に抱きかかえて、その灰色に近い白い毛を、何度も何度も撫でてやった。
そう、さくらには傷があった。目に見えない傷。あるときは恥となり、あるときは足枷となる、いやらしく流動的ないわば過去の流れである。
彼女がそれをぼくに話してくれたのは、三度目に会ったときだった。
待ち合わせ場所に現れた彼女は、笑ってはいたがどこかぎこちない表情だったのを憶えている。腕を組んで歩いているときも伏し目がちで、美術館を回り、映画を観た後にも、感想はというとありきたりの返答しか口にせず、覇気がなく、目が虚ろ、上の空に輪をかけて上の空といった様子だったからさぞかし心配したのだが、ディナーが終わった後、夜の街を軽く散歩しているときに、ちょうど街灯の光の届かない薄暗い公園近くのツツジ道で、ついに決心したのかぼくを後ろからきつく抱き止め、告白してくれたのだった。
その消え入るような声を聞いたとき、ぼくはやっと気づいた。彼女は自分の忌まわしい過去を告白することで、ぼくに嫌われるかも知れないと考えていたのだ。この関係の崩壊を予期していた――その不安のせいで、一日中気持ちが塞がりそうになっていたのだ。
その気持ちは、実によくわかった。
だから、黙って聴いていた。だが実際のところ、ぼくには黙ることしかできなかったのだ。
ショックを受けなかったといえば、それは嘘だ。だがそれは彼女への嫌悪感でも怒りでもなく、いってみれば共感だったろう。
たしかに、とうてい、共有できるものではなかった。ぼくが彼女と同じく女性だったとしても、それは同じだろう。とはいえ、想像はできる。そしてその想像から、事実を体験したのと同じだけの喜怒哀楽と、罪と、許しを、時には得、時には与えることができる。――彼女の気持ちを想像したとき、彼女が心配したような、彼女に対する嫌悪とか憤慨は一切感じなかった。
そういうと、彼女は少しだけ笑った。ほんとうに、と小さく小さく呟いた。ぼくはただ頷いて、むしろ嬉しい、といった。
すると彼女は、ぽろぽろと珠のような涙を流してひとこと、好き、といった。
実際、嫌悪感よりは、うれしい気持ちのほうが強かった。なんと声をかければよいのかわからず、ただ頷き、彼女の手を握ってやることくらいしかできなかったが、そういう大事なことを、ぼくを信頼し、打ち明けてくれたことが、なによりいとおしかったのだ。
三度目、というのは不思議な回数で、本当に相手が自分のことを好いてくれているのか懐疑的になる時期のようだ。実際ぼくは彼女のその日の様子から、いよいよぼくに飽きてきたのかなと少しばかり鬱々とした心境になりかかっていたのだった。
そのせいか、よけいに嬉しく感じたのである。
さくらは、泣きやまなかった。ぼくもとめようとは思わなかった。いままで溜め込んできたよくない記憶が、いま、一気に解き放たれているのだろう。空気中に――大空に。いずれそれは星となり、地球を――ぼくらを照らす小さな、しかしきっと一縷の望みとなる。だから、ここは泣くしかないのだ。
さくらが泣いている。――それでいいのだ。
自分にいいきかせるようにそう強く念じて彼女を見ると、ウェーブのかかった長い髪が濡れて、白く丸い顔に引っ付いている。みだらではあったが、そこには恥も外聞もない、たった一人の個としてのさくらが垣間見えた。
すると途端に、申し訳なさを感じた。彼女が不安に慄くそばで、ぼくは、なにを馬鹿なことを考えていたのだろうかと段々悔やまれてきた。ぼくといういわば他人の前でこれほど自分を解放し、あらわにしている彼女に比べてぼくは、なんと小さな――なんとくだらない!
ぼくに飽きてきた? 飽きてきた人間が、そんな、本来抑圧されるべき耐えがたき過去を打ち明けるものか。
自分の馬鹿さかげんに吐き気がした。相手の本気に応えることができなくて、なにが恋人か。情けない。ほんとうに馬鹿である。
腹の底から、自分という人間が、嫌いになってきた。さくらのような素直でやさしい女性に、ぼくのような愚鈍で情けない、馬鹿に輪をかけて無能――それも無能中の無能――な男はふさわしくない。
死ねばいい。どれほど怒っても、どれほど嫌ってもきりがないように感じられた。
嫌悪感や怒りを覚えたのは、つまり自分に対してであったわけだ。たぶんそれは、自分が、さくらを苦しめた連中と同じ性――男であったことが少なからず関係していたかもしれない。無性に恥ずかしかったし、耐えられないほどの 苦痛に思えて――
――心底、自分をやめたくなった。
世の中には男と女しかいない。だんだん、そんなあたりまえのことすらも、どうしようもないほどの大罪に思えてくるのだった。
それで、居ても立ってもいられなくなり、トイレに立つふりをして、ひそかに忍ばせておいたコンドームを、全部燃やすことにした。なかなか火がつかなかったので、トイレットペーパーをひと巻きまるごといただいて、その筒の中にコンドームを詰め込んで、燃やした。ひじょうに景気よく燃えてくれたが、ゴムの焦げるためか、ひどい臭いがした。それはきっと、自分がまだ自分でいること、そして、依然相変わらず男であることへの懲罰であるように感じられ、鼻のひしゃげるような悪臭を嗅ぎながら、ぼくはますます自己否定と自己嫌悪を逞しくしていった。
*
そろそろ冷たい風が吹くようになったある秋のことであった。川本は、どこまでも続く果てしないだらだら坂を、ゆっくりと登っていた。
どんよりと垂れ込めた雲が、坂の上でぐるぐるとぐろを巻いているようである。左右の白い壁も、どこかしらくすんで見え、アスファルトをすべるように転がっていく一枚の枯葉を目で追うにつけても、どこか寂しげで、不気味な様子であった。
――竹松が死んだ。
そう聞かされたのは、昨晩遅くのことだった。川本はちょうど風呂から出て、テレビを見ながらビールを飲んでいたのだが、叫ぶように電話が鳴って、卒業以来会っていなかった吹越という旧友が暗い声でそう告げたのだ。
「どうして?」
そう訊くと、わからんね、と彼はいった。
坂を登りきると、淡々と、お経を読む声が聞こえてきた。すぐ左手が竹松の実家である。川本はネクタイを締めなおし、門をくぐる。
受付に向かうところへ、横からすっと吹越が歩いてきて声をかけた。
「みんな、きてるぜ」
みんなというのは大学時代の友人たちである。ああとだけ答えた。
受付には、竹松の母親らしき人が、しょんぼりした様子で座っていた。枯れ果てた老木のように、うつろで、生気というものがまるでないといった様子だった。
「このたびは――」
声をかけると、彼女は、スローモーションかと錯覚するほどゆっくりと、顔を上げた。目の周りのしわが彫ったように深い。白くなりきっていない髪の毛は乱雑に後ろにまとめられ、死人のように土気色の肌、もちろん化粧はしておらず、本来なら薄桃色に染まっているはずの唇は、暗くどんより青白く濁りを帯びている。ひとことでいえば、屍鬼のようだった。
「……あなたは」
口をほとんど動かさず、搾りかすをさらに無理して搾ったような声で彼女は訊いてきた。
大学時代の友人です、と川本は答える。
「このたびは、本当に――ご愁傷様です」
彼女は、わずかに頬の筋肉を動かしたかと思うと、充血した目をぎょろりと回して、
「あちらに……みなさん、お集まりです」
とだけいって、門の脇の小さな池にたむろっている数人の男女を指差した。
「あ、はい」
「……」
それっきり、彼女は再び俯いて、もうなにも喋らなかった。その様子はまるで、川本を拒絶しているようでさえあった。友人の葬式だというのに、こんなだらしのない身なりをしている自分に憤りを感じたのだろうな、と川本は自虐的な想像をした。
* *
ときどき彼女は、幻覚を体験しているようだった。
いや、正確にいうならば、それは錯覚なのかもしれない。その両方といったほうがより正しいのか。いずれにしろ、ぼくには見えず、聴こえないものが、彼女にはあたりまえのように感覚できる。
木の影に、目玉がひとつ、ぷかぷか浮かんでいるといったときがあった。毛細血管が白目の部分を網の目のようにびっしりと被い尽くし、まるで真っ赤な縄模様の丸壺のような外観の中心で、ぱっくり――そう、ちょうど壺の口の部分のようなまるくくらい色の――瞳が、ぎろりと彼女を睨んでいる。
もちろん、そんなものはぼくには見えない。
しかし彼女は続けて、その目玉が喋ったという。なんといったのかと訊くと、ぐう、とかくう、とかそんなような音を発したのだという。
とうてい喋ったようには思えなかったが、あからさまに否定するのも気が引けたので、黙っておいた。
こわい、と彼女はいった。いつまでもわたしを見ている。いつまでも――きっと死ぬまで見ているのよ。死ぬまで――そうわたしが、死ぬまで――死んで、暗闇の――中に
彼女はああとかううとかなにやら呟くと、突然ぼくの肩に顔をよせておいおい泣き出した。
ぼくはびっくりしたが、彼女が目玉の浮かんでいるという場所は、先程からつむじ風が小さなごみを舞い上げている場所だったのである。もちろんそのごみの中に目玉様のものはなかったし、そもそも赤いものすらなかった。これを見間違えたのだとしたら錯覚だが――と思って、はっとした。
ぼくに見えないからといって、どうしてさくらが錯覚したといいきれる?
そうなのだ。錯覚しているのはぼくのほうなのかもしれないではないか。
あのつむじ風の中には、本当に目玉が浮かんでいるのかもしれない。そしてさくらを睨んでいる。いつまでも――彼女が死ぬまで……。
いや違う。そいつが――その目玉が、さくらの命を奪おうというのだ。死ぬまで待つわけじゃない。いま、ここで、彼女を睨み殺すのだ。
護らなければ。ぼくの、大切なひとだもの――しかし
しかし、見えなければいけないものが見えていないのだとしたら――。
どうやって護ればいい?
倒すべき敵をこの両の目にとらえずして、どうやってぼくは、その目玉に斬りかかればいいのだ。
――さくらはまだ泣いている。
ぼくも泣きたかったが、泣いている場合ではなかった。
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