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Just Jpan 2001 4月号
 ≡ 2 ≡  * 1977年 春 * 桜の花と魔法使い

 小学生の頃のことだ。私は母に手を引かれ、バスに乗ってベッドタウンの開発途中にあった、山の中腹の大きな病院を訪れたことがある。病院は子供や老人で混み合っていて、私と母はさんざん待たされた。仕事を休んできた母は、その待ち時間をイライラしながら機嫌悪く過ごしていた。私は、5分おきに時計をのぞき込むそんな母の様子が怖くて、窓の外を眺めていた。
 春だった。空は、今日のような果てしない晴天で、病院の中庭の桜が満開だった。桜の下では、何人かの寝間着を着た病人と、白衣をまとった医者のような男と看護婦とで、花見らしきことをやっていた。満開の桜の下に敷かれた青いシートの上に病人たちは座り、何かを飲みながら、穏やかな表情で話をしていた。シートの周りには、車椅子に乗った病人たちがいた。そのうちの一人は、おびえた表情をして看護婦の腕にしがみついていたが、看護婦がしばし笑顔で語りかけると、その腕を解いた。医者のような男は、別の車椅子に乗った男と話をしていた。男は、車椅子の上にきちっと背筋を伸ばして座り、医者の目をまっすぐに見つめ、真剣な表情で話をしていた。けれど、深刻な様子はまったくなく、むしろその男が人と話すときの姿勢が、常にきちんとしている、というだけのもののように見えた。

 「お花見してるよ」
 私は母に言った。
 母は疲れた表情で声もなく頷き、中庭をチラッと眺めた。
 「ほんとだね。いいねえ」
 母は、急に優しい声で言った。それはまるで、イライラした表情を私に見せてしまったことを詫びるかのような態度だった。
 「帰りにお団子買おうか。ユキ、お団子食べる?」
 「うん。」
 母は笑顔になり、私の髪をグシャッと撫でつけた。けれど、そのすぐあとには、母の顔に疲れた表情が戻ってきていた。私は、再び病人たちのお花見を眺めることに意識を集中した。

□■□

 ようやく私の名前が呼ばれたのは、病院に着いて1時間半もたってからだった。
 診察室に入ると、痩せて髪の真っ白な老人が白衣を着て座っていて、机に向かい紙に何かを書き留めていた。作業が終わると老医師は看護婦にその紙を渡し、笑顔で私の顔をのぞき込んだ。
 「こんにちは」
 老医師は言った。
 私はすぐには声を出せなかった。心の中で、シャッターが閉まった。私はじっと老医師の目を見つめた。
 「綺麗な目だね。えーと・・・・、ユキちゃんだね」
 老医師はカルテを確認してそう言った。
 「お母さんですね。症状はわかりました。ユキちゃんと少し話をしたいので、外で待っていていただけますか? いえ、ほんの2、3分です。」
 老医師はそういうと、看護婦にも退室を命じた。母は、私の髪をグシャッと撫でると、笑顔で私に目配せをして、部屋を出た。『ストン』と静かな音がして、ドアが閉まった。

 老医師はすでに、町医者からの診断書を受け取っていた。その町医者を訪れたときも、私の心の中ではシャッターが閉まり、結局私は一言も声を発することなく、診察を終えたのだった。

 「日常生活に差し障りがあるというほどではないんです」
 母は、町医者にそう言った。
 「ただ、あまりに少なすぎると言うか・・・」
 町医者は、ふむふむと頷きながら、カルテにたくさんのことを書き付けているようだった。

□■□

 「ユキちゃんは何年生になったかな?」
 老医師は私に尋ねた。私は指で『2』を出した。
 「そう。もう学校は始まっているね。新しいクラスは楽しい?」
 私は頷いた。
 「学校に友達はいる?」
 私はじっと老医師の目を見つめ、肯定も否定もしなかった。どんな存在を『友達』と呼べばいいのかが、私にはわからなかった。
 「よし。好きな食べ物は?」
 私はうつむいた。カレー、と言いたかったのに、言えなかった。声が出ないとか、そういう物理的なものではない。苦しくもなければ、胸がドキドキするようなこともない。ただ、言えないのだ。心の中に『カレー』という文字があって、それを私は目の前の老人に伝えようとする。だが、心の中で『カレー』とつぶやいた瞬間に、老人からの質問の答えが『カレー』であるのかどうかが、わからなくなる。それでも、『カレー』と言おうと頭は動くのだが、声を出す前に『カレー』という文字は心の中から消えて無くなっている。虚無だ。あとには、『カレーかもしれないけど、本当は好きなものなんてわからない。何もないのかもしれない。』という感覚だけが、黒く残っている。

 老医師が私の手をそっととった。私が顔を上げると、老医師は片手を自分の胸に当てて目をつむり、真剣な表情で、
 「カレー」
 と、静かに言った。
驚いた。なぜこの医者は、私の心がわかったのだろう。私は老医師の目を、驚きと尊敬を込めてのぞき込んだ。この人は魔法使いかもしれないと、本気で思った。
 「ボクは魔法使いだからね。」
 老医師はニッコリ笑うと、カルテに私でも読めるぐらいの大きな字で
 “かれー”
 と書いた。

 老医師は看護婦を呼び、母を中に入れるように指示をした。
 母が入ってくると、看護婦がアメをくれるというので、私は看護婦に付いて診察室の奥の部屋へと入った。そこには、何に使うのかわからないロボットのような機械がいくつも置いてあり、白い棚の中には薬やハサミや包帯などといった、いかにも病院らしい物たちが並んでいた。看護婦はその棚の引き出しを開けると、私に向かって手招きをした。私が近寄って引き出しを覗き込むと、引き出しの中には、千代紙が周りに貼ってある小さな箱が入っていた。看護婦が箱の蓋を開けると、中には色とりどりのアメがぎっしりと入っていた。
 「じゃあ、今日は特別。3つあげるね。」
 看護婦はそう言うと、引き出しからアメを箱ごと取り出し、私の目の前に差し出した。私がしばらく箱の中を眺め、看護婦の顔を見上げると、
 「ん? どうぞ。好きなの取っていいのよ。」
 と、看護婦は言った。
 私は、緑と黄色とオレンジのアメを取り出した。3つのアメを手のひらに載せ、しばし眺めた後に私が、
 「ありがとう。」
 と言うと、看護婦は一瞬驚いた表情で私の目を覗き込み、すぐに笑顔に戻った。
 「どういたしまして。」

 私と看護婦が診察室に戻ると、母と老医師は、これからしばらく病院に通うことについての話をしていた。診察室を出るとき、私がじっと老医師の顔を見ていると、老医師は声を出さずに、
 「カレー」
 と口を動かし、手を振りながら私にウィンクをした。

 診察室を出た母と私は、大きな受付で会計を済ませ、次回の診察の予約を入れた。受付には太った中年の女性が座っていた。
 「予約を入れておけば待たずにすみますか?」
 と、母が尋ねると、
 「日によりますね」
 女性は顔も上げずに素っ気なく答えた。
 母は小さなため息をひとつつくと、グシャッと私の髪を撫でまわし、私の手を引いた。

 外は相変わらず、晴天だった。桜の花びらが風に舞い、春の匂いがそこら中に充満していた。 母は、診察室の中でのできごとを私に尋ねるでもなく、ただ黙ってバスを待った。
 バスを降りると、家の近くの喫茶店で母と2人で昼食をとった。バスでうたた寝をしていた母は、少し元気になった様子で、今日出会った老医師や、太った受付の女について笑いながら話した。私は、『カレー』のことを母に言おうかと思ったが、まだシャッターがうまく開かなかったので、ただ笑顔で頷きながら母の話を聞いていた。

 午後から母は仕事へ出かけた。私は、母が忘れてしまった団子のことを考えながら、留守番をした。


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