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| Just Jpan 2001 3月号 |
| ≡ 父の靴音 ≡ |
| 池内 美喜子 |
私は,子どものころから父の靴音が好きだった。それを最近思い出した。女性や子どものそれより重く,着実で,しかし普段はまったく気にも留めないBGM程度の靴音。頼り甲斐があり,自分の「基盤」の一部であるような,あるいは「大人」の象徴であるように感じていた。当時は舗装していない道も多く,砂利の音なんかもあった。
「お父さんの靴って大きいなあ。歩くといい音するよね。」
そんなことを母親に言ったこともある。
なぜ,急にそんなことを思い出したのか分からなかった。突然生活環境が変わったということもない。大きな心境の変化があったわけでもない。今は結婚して六年,毎日夫と子どもを会社と幼稚園に送り出し,少しばかりのパート仕事と家事をこなす。短調で平穏な家庭の主婦である。徳に不満はないが,感激というようなものもない。しかし,刺激といえば,毎日変わっていく子どもの存在だった。日々新しいことを覚え,遊びをつくりだし,あらゆることに熱中できる。服や靴なども見る間にきゅうくつになり,成長が目に見えるようだ。
「僕は,幼稚園で毎日一生懸命がんばってるもん」
そこには,私の知らない我が子がいる。
この刺激に対して,少々焦っているのかもしれなかった。少しずつ伸びていく我が子に反し,毎日同じことを繰り返して,生活が制約だらけに感じられる自分。学生時代のように腹蔵なく話し合える友人がいるわけでなく,子どもが小さいうちは映画一本観に行けるわけでもなかった。そんな自分に,どこかで嫌気がさしているのかもしれない。
「たまにはお友達と,おいしいものでも食べに行きたいなあ。」
楽しみにしているのはそれくらいなのである。
自分が小学生ぐらいのときは,いかにも軽い自分の靴音など気にしたこともなかった。中学生になったころから「軽い」と思うようになり,高校に行きはじめると,それが自分の「力のなさ」の証明のように思えた。早く自分のことはなんでも始末できてお金も稼げる「大人」になりたいと考えた。そう思っていたことも,同時に思い出した。
今の自分を振りかえって,高校生のころに考えていた「大人」とはずいぶん違うと思う。相変わらず何の力もないし、大金が稼げるわけでもない。成長すればすっかり理解できるようになるだろうと思っていた,文化的なものに触れる機会もほとんどないし,テレビが好きで,ゲームも好きで,精神的には高校生のころとほとんど同じ。それなのに,子どもが大きくなるにつれて,責任という文字,「親」という役目ばかりがどんどん肥大していく。それがけっこう,意識のどこかに重圧としてのしかかっているのかもしれない。
「今日は“お母さん”の営業は受けつけておりません。」
そう言いたい日もある。これって子どもっぽさの証明?
今になって自分の靴音を聞いて,音だけはかつての父親のものに似ていることに気づく。当たり前だ,男性としては小さい方の父と,女性としては大きい方の自分は,靴のサイズがほとんど変わらない。それも,外反母趾の私は,もっと軽い音がするであろうハイヒールを,ほとんどはかない。けっこう重く,「しっかりしなよ」と語りかけるような靴音。舗装していない道はほとんどなくて,何となく金属的な響き。それに励まされるでなく,追いたてられるのでもなく,少しばかりのため息をこめて,時折耳を傾けながら歩く自分。今もって「大人」になるというのがどういうことか,よくわからない。昔,あれほどしっかりした存在に思えていた父も,こんなふうに迷ったりしていたのだろうか。
「お父さんには私の気持ちなんてわかるはずない。」
ずーっと,そう思ってきたなあ。これって,お互い様なのか。今度は,自分の子どもがそう思うんだな。
今は,「力がほしい」とも「大金を稼ぎたい」ともあまり思わない。だからといって子どもだけを楽しみに生きていくというのも,何か違う気がする。例え思ったとおりにならないことばかりでも,大きく生活が変わる希望がなくても,小さな夢は持っていたい。
「もしも離婚したとしても,子どもと暮らしていける方法を見つけたいなあ。」
妙に具体的で悲壮だけれど,今はこんなところかな。夢が小ぢんまりした分,少し「大人」になったということだろうか。
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